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チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵) : ミニ英和和英辞書
チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)[だんしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 
男爵 : [だんしゃく]
 【名詞】 1. baron 

チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵) : ウィキペディア日本語版
チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)[だんしゃく]

第3代ボルティモア男爵チャールズ・カルバート(、1637年8月27日 - 1715年2月21日)は、イングランド生まれの政治家であり、父である第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(1605年-1675年)の死後に北アメリカメリーランド植民地を承継した。24歳の1661年に、父から副総督に任命されてメリーランドに到着し、総督を代行することになった。しかし、チャールズは1684年にメリーランドを離れてイングランドに戻り、再び戻ることは無かった。1688年、イングランドの名誉革命に続く出来事によって、カルバートはメリーランドにおける権益を失うことになった。1689年、植民地に対する王室の勅許が取り消され、王室による直接支配に変わった。カルバートの政治問題はイギリス国教会が国教となっていた当時にあっては異端となるローマ・カトリック教会を信仰していたことが大きな原因だった。カルバートは4回結婚し、3人の妻に先立たれ、少なくとも2人の子供が生まれた。チャールズ・カルバートは1715年、78歳の時にイングランドで死に、その一家の財産の多くが消滅した。その死と共に、称号やメリーランドに対する権利を次男のベネディクト・カルバートに渡した(長男のセシルは若くして死んでいた)。しかし、ベネディクトもチャールズの死後2か月で死に、それらの権利は孫の第5代ボルティモア男爵チャールズ・カルバートに渡った。その孫のチャールズはカトリックからイングランド国教会に改宗し、国王から家族のものだったメリーランド植民地の領主権を快復されることになった。
== 初期の経歴 ==
チャールズ・カルバートは1637年8月27日、イングランドで生まれた。幼い時にイングランド内戦(1642年-1651年)の宗教抗争をみることになった。父は第2代ボルティモア男爵セシル・カルバートであり、メリーランド植民地の初代領主総督かつ、ニューファンドランド島(カルバート家の初期植民地であるアバロンを含む)の第9代領主総督だった。母は初代アランデル・オブ・ウォードア男爵トマス・アランデル(1550年-1639年)の娘、アン・アランデル(1615年/16年-1649年)だった。アンとセシルは1627年あるいは1628年に結婚し、9人の子供が生まれた。しかしチャールズを含め成人したのは3人だけであり、アン自身もチャールズがまだ12歳だった1649年に死んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)」の詳細全文を読む




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